学問の意義
数学なんて大人になったら使わなくなるのになんで勉強しなきゃいけないんだ。
学生時代こんなことを言うクラスメイトが少なからず居た。
教師によって諭し方に違いがあって面白い。
ある教師は、「確かに大人になってから数学を使うことなんてほとんど無いけど、これらを学ぶことで論理的思考力が鍛えられる。」
と言っていた。
またある教師は、「いや、この勉強は社会のこの分野で応用されていて、役に立たないなんてことはない。」と言っていた。
そもそも学問は役に立たねばならないのか。
僕は当時から、役に立たないものは必要ないと考えるのはナンセンスだと思っていた。
おそらく、古代ギリシャの数学者や哲学者たちは、自分達の学術的発見を役に立たせようなどこれっぽっちも思っていなかったと思う。
彼らの原動力は主に知的好奇心に根差していたのだと思う。
科学が発達した現代でもそれは変わっていないと思う。
数学、自然科学、哲学、文学などの、あらゆる学問分野の礎となっている、ある意味低次元的な分野は良い例。数学者や文学者に利益追求を第一としている人はほぼいないだろう。
当然、社会貢献を目標とする学問分野も存在するが、それはより高次元に位置する分野である。
多くは結果的に役に立っているだけである。
学問の意義は、知的好奇心を満足させることであり、役に立つことはさほど重要ではない。
また、役に立たないと思われるものなどいくらでもあるのに、なぜ勉強は必要ないと思うんだろうとも思っていた。
芸術など即物的な観点からは何も役に立たないように見える。これらはもちろん精神的な面で役に立つということもできるが、別に無いからといって死ぬわけでもない。
しかし音楽や美術が文化として長らく愛され、必要とされ続けているのは事実。
結局、なんで数学なんて勉強する必要があるんだと言っているのは、単なる屁理屈に思える。嫌なことをしない自分を正当化しているだけに過ぎない。
嫌なら嫌で開き直っちゃえばいいのに。
もし僕が教師だったら、楽しくないなら勉強する必要はないとでも言うんだろうか。
かくいう僕は、受験生の頃でさえ、全く興味を持てなかった教科に対しては、興味がないから仕方がないと開き直って一切勉強しなかった。
こんな教え方をすると、子供に興味関心を持たせにくくなるかもしれないのでやめた方が良さそうだ。
世界と言葉
世界ははじめ、混沌の海に満ちている。
その世界を見る人は、外部の混沌とした事態に対し様々なフィルタを通して、世界というものを認識する。
言葉や文化などがそれにあたる。
異なる文化を持つものは、同じ外部情報でも異なるフィルタを通して認識するため、全く別の世界を見ているかもしれない。
文化は何によって形成されるか。
知識、習慣、経験、言語、価値観、これもまた様々な要素がある。
当然、同じ要素を共有する文化は似ることもあるだろう。
しかし、全く同じ文化を持つことはあり得ない。
なぜなら、例えば経験ひとつとっても、自分と全く同じ経験をする他人などあり得ないから。
言葉もまた世界を認識するためのフィルタの1つである。
その人がどのような世界をみているか、ということには、その人の持つ言葉の定義が大きく関与する。
紫色という言葉を知らぬ人は、紫色を見ても”青のような赤”のように認識するだろう。
固有名詞がその最たる例で、そもそも知らないと見ることすらできない、つまり認識すらされないこともある。
自然言語の場合、言葉の定義が曖昧なため人それぞれで言葉の持つ意味が違う。
人が言葉の意味を理解するとき、数多くの経験により、その言葉の持つイメージの一般的な部分、抽象的な部分を取り出す経験的理解の仕方がある。
この場合、当然言葉の定義には個人差が生じる。
辞書に載っているのも、自然言語の場合厳密な定義ではないことがわかる。
ほとんどの場合、いくつかの意味を列挙し経験的理解を促している。
同じ言葉の定義を持っている人間など存在しない。
したがって、自分と全く同じ世界を見ている他人は存在しない。
人は不完全であるが故に人なのだと思う。
不完全であるからこそ、こうした個体差が生じる。
しかし今日、個性を尊重するのが大切という一方で、合理化の流れがほぼ完成しつつあると思う。
機械を論理の象徴とし、0と1だけの世界を理想としているように見える。
合理化の果てに人はどうしようというのか。
神に近づこうとでもいうのか。
僕が好きな言葉は支離滅裂。
この文章も話題の一貫性がまるでない。
最終的に何をかこうとしたのかわからなくなっちゃった。
本文を書いてからタイトルを考えるのはやめたほうがよさそうだ。