世界と言葉
世界ははじめ、混沌の海に満ちている。
その世界を見る人は、外部の混沌とした事態に対し様々なフィルタを通して、世界というものを認識する。
言葉や文化などがそれにあたる。
異なる文化を持つものは、同じ外部情報でも異なるフィルタを通して認識するため、全く別の世界を見ているかもしれない。
文化は何によって形成されるか。
知識、習慣、経験、言語、価値観、これもまた様々な要素がある。
当然、同じ要素を共有する文化は似ることもあるだろう。
しかし、全く同じ文化を持つことはあり得ない。
なぜなら、例えば経験ひとつとっても、自分と全く同じ経験をする他人などあり得ないから。
言葉もまた世界を認識するためのフィルタの1つである。
その人がどのような世界をみているか、ということには、その人の持つ言葉の定義が大きく関与する。
紫色という言葉を知らぬ人は、紫色を見ても”青のような赤”のように認識するだろう。
固有名詞がその最たる例で、そもそも知らないと見ることすらできない、つまり認識すらされないこともある。
自然言語の場合、言葉の定義が曖昧なため人それぞれで言葉の持つ意味が違う。
人が言葉の意味を理解するとき、数多くの経験により、その言葉の持つイメージの一般的な部分、抽象的な部分を取り出す経験的理解の仕方がある。
この場合、当然言葉の定義には個人差が生じる。
辞書に載っているのも、自然言語の場合厳密な定義ではないことがわかる。
ほとんどの場合、いくつかの意味を列挙し経験的理解を促している。
同じ言葉の定義を持っている人間など存在しない。
したがって、自分と全く同じ世界を見ている他人は存在しない。
人は不完全であるが故に人なのだと思う。
不完全であるからこそ、こうした個体差が生じる。
しかし今日、個性を尊重するのが大切という一方で、合理化の流れがほぼ完成しつつあると思う。
機械を論理の象徴とし、0と1だけの世界を理想としているように見える。
合理化の果てに人はどうしようというのか。
神に近づこうとでもいうのか。
僕が好きな言葉は支離滅裂。
この文章も話題の一貫性がまるでない。
最終的に何をかこうとしたのかわからなくなっちゃった。
本文を書いてからタイトルを考えるのはやめたほうがよさそうだ。